「あらゆる国と言語にとって最高の褒章に値する人」グーテンベルクの印刷術

 

 

 「ノヴム・オルガヌム」における「西洋の三大発明」の礼賛

西洋の三大発明として、「活版印刷、羅針盤、火薬」があげられることが多い。この元がフランシス・ベーコン(1561-1626)の言葉で、「火薬、羅針盤とともに印刷術は世界の外観と本質を変化させた」と記している。

われわれは古代人が知らなかった3つの発明、すなわち印刷術、火薬、そして羅針盤の発明に、他の何にもまして顕著にみられる勢いと影響と成果を心にとどめるべきである。この3つは全世界の外観と状況を一変させた

(ノヴム・オルガヌムより引用)

その活版印刷術を用いてグーテンベルクが印刷をはじめたのは、15世紀半ばあたり。「詳説世界史」には、「15世紀半ばごろドイツ人グーテンベルクが改良した活版印刷術は、製紙法の伝播と結びついて、書物の政策を従来の写本よりもはるかに迅速・安価なものとし、新しい思想の普及に大きく貢献した」とある。

この「新しい思想」とは人文主義と宗教改革のことだ。

活版印刷の技術

ではその活版印刷とはどのようなものだっただろうか?
活字をくみ上げて印刷する技術、それが活版印刷だといえる。文字が「同じ形」であることに着目して、その「同じ形」を大量生産することで、組板をつくり上げるコストを、文字を並べるのみまでに省力化したのが利点だった。

歴史的には、以下の経過をたどる。ヨーロッパではながく筆写時代が続いたのち、14世紀末に木版印刷が行われるようになった。しかしこれは文字を印刷するのに不向きだった。
グーテンベルクの方式は、「鉛の合金によってアルファベット活字を鋳造し、それらを自由に組んで組板をつくり、その上にインクを縫って圧搾機にかけて印刷する」というもの。
当時すでに金属活字を製造する技術自体は存在したものの、それを改良し、組板とした点、並んで活版印刷に適した従来筆写・木版印刷にもちいていた水性インクではなく、油性インクに改良を加えたものを使用するなどした点が、彼の発明の独自性だとされている。

 グーテンベルクの人生

では、以下、印刷術を確立した、グーテンベルクの人生についてみていく。

生誕~活版印刷の発明まで

ヨハネス=グーテンベルクは1400年ごろ(諸説あり)、西部ドイツの町、マインツに生まれた。苗字は「ユダヤ人の丘」という意味のユーテンベルクから。生年月日が1400年6/24とされたのは、1900年の生誕500周年祝いのさいに、さかのぼって決められたのと、6/24は聖ヨハネの祝日からきている。
当時のマインツは、かつての「黄金の街」ともよばれた繁栄もすぎさり、下り坂の状況だった。ペストの流行や、有力者が税金を払わず、年金を市から受け取っていたことで、市の財政がひっ迫していたのも原因だ。1438年の市の借金は377000グルデン。市の全住居を購入できるほどの金額、だと書かれている。そのため、中小商人・手工業者ギルド(ツンフト)と有力者の間には対立があった。
彼の先祖はその有力者……都市貴族が多かった。都市貴族というのは、大商人がその経済力で、騎士の生まれと同等とされて貴族に加えられた人をさす。
兄とのあいだで金銭をめぐる対立があったらしく、グーテンベルクは、1434年にはシュトラスブルクに住んでいた。そこで手鏡の製造などを行いながら、初期の印刷も行っていたと考えられている。
44年にシュトラスブルクを離れて、48年にマインツに帰還したとされるまで、4年間の空白時代がある。

 

ドナトゥスと聖書の印刷

マインツで彼は「グーテンベルク屋敷」に印刷工房をたて、「ドナトゥス」というラテン語の文法書などを印刷していたのだけれども、後に聖書の印刷を心ざすことになる。しかし聖書の印刷が、はたして需要があるものなのかは、わからなかった。そこに、同時代の神学者、ニコラウス・クザーヌスの影響があったのではないか、という説もある。

……カトリック教会の内部にも、……前宗教改革的運動や教会改革の立場から聖書の普及を奨励したニコラウス=フォン=クース(注:ニコラウス・クザーヌス)のような人物が存在した。1451年5月、クースは教皇特使としてマインツにおいてベネディクト派修道会の70人の院長から宣誓を取っているが、その際に彼は修道院内図書館にとって、よい翻訳によって編纂された聖書の持つ意義を説いたものと思われる。そしてクースとの関係が深いグーテンベルクは、このとき改革派修道会からの聖書への需要というものを悟ったものとみられるのだ。貧乏な学生や末端の司祭が高価な聖書を自ら購入することは無理だった。潜在的な買い手としては、修道院、司教、大学教主、世俗領主などが考えられていたわけである。

 

ところで聖書の印刷には資金がかかる。このとき融資を受けたのがヨハネス=フストという人物だった。。彼の出資でグーテンベルクは聖書の印刷用に新しい印刷所(フンブレヒト屋敷)を構えることができた。
そこで3年間をかけ、1455年、推定180部が発行されたのが「グーテンベルク聖書」として知られる、「四十二行聖書」だ。この聖書に使うため、290種類もの活字が鋳造された。大文字、小文字、合字、略語、句読点などにくわえ、幅の広いアルファベットに、狭いアルファベットなどが用意された。

提訴

そして、聖書完成後の1455年、ヨハネス=フストはグーテンベルクを提訴する。訴えの内容はグーテンベルクにたいして、融資した金額+利息、総額2026グルデンを返還するように請求したものだ。
研究者のアルベルト=カプルは、聖書が完売した場合の利益が4500グルデン(大邸宅1個が約100グルデン)だと試算しているから、仮に聖書が完売していればどうだったかはわからないけれど、とにかくグーテンベルクは敗訴して、抵当物である印刷機、工房、印刷物はフストのもとにわたった。
なぜこんな訴訟をフストが起こしたか。グーテンベルクが職人的に聖書の完成度を高めて時間を使ったのにたいし、フストが業を煮やしたのではないか、などといわれている。また、グーテンベルクは分ブレヒト屋敷の工房ではなく、グーテンベルク工房について、借りた金を流用していたらしい。また、免罪符の印刷をめぐっても対立があったのでは、ともいわれている。
ともあれ、グーテンベルクからフストのもとに経営権がうつったのち、ペーター=シェッファーがフンブレヒト工房の後をつぐ。1457年に「マインツ詩篇」(多色刷り)を印刷したりするなど、発展を遂げていく。この作品はその美しさからして、グーテンベルクの監督下で開始されたと考えられている。フストは1466年にパリでペストで亡くなった。

晩年

一方グーテンベルクは、古巣のグーテンベルク屋敷の印刷工房で印刷を続けていたけれど(「カトリコン」:百科事典)、一方でマインツの大司教と教皇が対立(ドイツ人がディーター大司教を選び、一方でローマ教皇がアドルフを大司教に任命し、ディーターを罷免した)をふかめ、1462年にマインツが陥落する。ディーター派に属していたらしいグーテンベルクは、家屋敷を没収されて、マインツを追放された。

グーテンベルクはそのごエルトヴィレにうつって、その地で印刷業を続けていたとみられている。

その後、アドルフとディーターの和解が演出され、その流れでグーテンベルクにも大司教への任官(名誉職)の手紙がとどき、グーテンベルクは最後の三年間を平穏にすごした。1468年2月3日、グーテンベルク死去。遺体は聖フランシスコ教会に埋葬された。

 

D.O.M.S(deo optimo maximo sacrum[至上の神に捧げて])
印刷術の発明者で
あらゆる国と言語にとって最高の褒章に値する人である
ヨーハン・ゲンスフライシュのために
彼の不滅の追悼として
アダム・ゲルトフスが(この記念碑を)建立する
彼の遺骨はマインツの聖フランシス教会に
安らかに眠る
(「グーテンベルクの時代」198p)

 

このようにして生まれた印刷技術は、大きなインパクトをヨーロッパにおよぼした。

参考資料

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