田山花袋の誕生から、「蒲団」執筆の頃までの略述

花袋の誕生~文学を志すまで

田山花袋こと田山録弥は、明治四年に栃木県で生まれた。

父親は武士の家系、雅号の「花袋」を初めて用いたのは明治25年の「落下村」から。明治九年、東京で務めた父の後を追って東京で暮らしたが、父親が明治10年に西南戦争「御船の戦い」で戦死したため、故郷の舘林に戻った。

我には父といふ記憶なかりき。父はわが5歳のとき、東京に出でて、陸軍に職を奉し、かの西南の役に早くも犠牲となりたまひけるなり

 [幼き頃のスケッチ]

小学校を中退して書肆「有隣堂」で丁稚小僧として働いていたけれども、クビになってしまい、ふたたび故郷に帰ることになる。
三度目の上京が明治19年で、坪内逍遥の「当世書生気質」(18年)や二葉亭四迷「浮雲」(20年)が出版されたころとなります。

 

花袋は軍人になろうとしたけれど失敗し、法律をやって政治の道を行こうか迷っていた。

そういう時期に友人に勧められて読んだ二葉亭四迷訳、ツルゲーネフ著の「あひびき」の言文一致体に大きな衝撃を受ける。

としても当時の小説家の生活は楽ではなく、明治23年に現在の日本大学の前身である、日本法律学校に入学する。

しかし、腸チフスにかかって、入学数か月で退学になってしまう。そして「追い詰められた末の生活の糧」として文学を選ぶことになった。

入門~初期作品

明治24年5月24日、花袋は尾崎紅葉の自宅を訪れる。そして「成春社」の会員になった。
また尾崎紅葉の紹介で江見水蔭の門下生(ないし友人)にもなっている。
このころ花袋は、翻訳をしたり、写字をしたり、小説を発表したりして収入を得ていた。けれども、書き溜めておいた作品を「明治文庫」用に渡したときの報酬が25円、「一家族がどうにか一月生活できる金額」程度を受け取って、

三年かかつて、二十五円、これぢやとても駄目だ。とても文筆では身を立てることができない

 

と悲嘆したとされている。
明治29年、花袋と独歩との交流も始まる。彼らの交友は、独歩が病死する明治41年まで続く。
明治32年、伊藤リサと結婚。あまり小説は読まない人だったらしい。その半年後に母が死ぬ。このことは「生」(明治41)に詳しく書かれている。またこの年に花袋のはじめての単行本小説「ふる郷」が出版されている。

硯友社批判

明治34年、「「野の花」の序」で、硯友社全盛の文壇を批判して、反響を呼ぶ。

硯友社 – Wikipedia

硯友社とは尾崎紅葉らが中心となった文学結社で、古典性・通俗性などが特徴とされている。

明治35年、「重右衛門の最後」発表。このころ、「龍土会」の交流が行われるようになる。当時の若手作家が交流した会で、「自然派の文芸は竜土会の灰皿から生まれた」ともいわれるように、自然主義文学の土壌をつくった会とされている。
明治36年、「大日本地誌」編集。『蒲団』では

その数多い工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日正午ひるから通う処で、十畳敷ほどの広さの室の中央には、大きい一脚の卓が据えてあって、傍に高い西洋風の本箱、この中には総て種々の地理書が一杯入れられてある。渠はある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝に従っているのである。文学者に地理書の編輯! 渠は自分が地理の趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているが、内心これに甘あまんじておらぬことは言うまでもない。

図書カード:蒲団

とあるが、待遇はよかったらしい。

7月に「蒲団」の芳子のモデルである、岡田美千代から手紙を受け取り、37年2月に彼女は上京してくる。

岡田美知代 – Wikipedia

その直前に日露戦争が始まっており、花袋は博文館の従軍記者として参加する。時期的には「蒲団」と重なるけれど、このことは「蒲団」では書かれていない。日露戦争は明治38年9月に終結する。
明治39年に「少女病」を発表、翌40年、「蒲団」発表。

 参考

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