塔と執着 上田岳弘「ニムロッド」感想

2019年1月、第160回芥川賞受賞作。「1r1分34秒」と同時受賞。タイトルは「ピープル・イン・ザ・ボックス」の曲名に由来する。

主人公は中本哲史(ナカモトサトシ)。ビットコインを採掘する部署である、「採掘課」の課長をまかされている。冒頭付近から、ハンドルネーム・「ニムロッド」から送られた、「駄目な飛行機コレクション」というメールが挿入される。

メールの内容は、人類の挑戦の歴史、失敗の歴史を振り返る、というものだが、しだいに未来の人間について思考するものとなっていく。

それでも、普通を是認していればいいっていうのもなんだか気に入らない。

(「群像」2018年12月(以下略)11p)

ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?いつか駄目じゃなくなるんだろうか?人間全体として駄目じゃなくなったとしたら、それまでの人間たちが駄目だったっということになるんだろうか?

(22p)

ニムロッドは本名を荷室仁といい、鬱病になって休職したのち、名古屋に転勤した。渠が小説を書いており、新人賞の最終選考で3回落選していることが明かされ、彼からのメールは「駄目な飛行機コレクション」から、バベルの塔をモチーフにした、神話的な内容の小説にかわってゆく。

僕は、なんとしてもその、何よりも高い塔を手に入れなければならない

(36p)

一方でビットコインの採掘は徐々に効率が悪くなっていった。主人公と、その同名のビットコインの創設者、サトシ・ナカモトが対比される。

その資産は、彼が発案したアイデアに人々の欲望が向かったからできあがったものだ。何もない所からこの世に価値を引っ張り出して、その一部を所有した(…)

(37p)

同様に、ニムロッドの欲望する塔も、「何らかの視点によって切り取られた限定的な世界の中心」に建つものだとされる。 「執着心」により生まれた情報的重力によって、並列化される世界の中に、塔が屹立する。

僕は誰よりも僕の塔に執着できている。

だからこそ、塔の建築を指揮する僕はこう名乗る資格がある。

僕はニムロッド、人間の王。

(40p)

ニムロッドの小説のなかで、「最後の商人」が、もはや世界には「駄目な飛行機」は存在しない、と告げる。故意に駄目に作った飛行機は、もはや駄目な飛行機とは言えないからだ。

もう人間は、駄目な飛行機を造れなくなったんだ。

(54)

人間自体も変わってしまっていた。人間の寿命は「廃止」され、彼らは「最後の人間」とよばれている。「最後の人間」は資産を「あのファンド」に信託し、「寿命の廃止」の技術を適用される。「あのファンド」は資産運用を失敗することはない。全能だといえる。

その「最後の人間」も、もはや「個」を失っている。

そもそも、もう普通の人間なんていないんだ。人間はすべてが最後の人間になるか、あるいは死んでしまった。そしてその最後の人間たちも個であることをやめた。

ニムロッドは執着から塔を建てた。しかし、彼の塔が立ち、「駄目な飛行機コレクション」が完成して、なお、彼は執着することができるのか。

君の願いももう完膚なきまでにかなったのではないか?それでも君はまだ、人間でい続けることができるのかな?

(55p)

一方で、田久保という女性と、中村の交際がえがかれる。

田久保には堕胎歴があった。

その検査で染色体異常がみつかって、結果彼女は子供を生まなかった。(…)当時の夫は判断を彼女に委ね、どんな場合でも支えるといった。(…)夫は、判断を完全に彼女に預けるべきではなかった。少なくとも半分は受け持つべきだった。彼女は、今にしてそう思う。

(27p)

決断の結果を背負うことが問題になる。情報を知ることは可能だが、決断するのは最終的には自分である。高い塔からすべてを見下ろすことはできるが、世界はあくまで世界として現前している。中本はニムロッドについて、感想を述べる。

「全知だけど、全能じゃないんだ」

情報と決断。全体に溶けることは決断の放棄といえるだろうか。すでに多すぎる情報が与えられており、全ての決断の責任を負うことはできない。

「手に余るんだよ。君もさっき言ってた」

「だったら手を大きくしないと。それを受け止められるように」

そして、できることがどんどん増えていって、やがてやるべきこともなくなって、僕たちは全能になって世界に溶ける。

(59p)

一方の、「手を大きく」することの果てに、「全能」があり、その行き着く先に、世界に溶ける「最後の人間」たちがいる。もう片方には、高い塔の男、ニムロッドが、その様子を眺めている。

田久保と荷室が遠隔通話で対話を行い、二人は中本の元から去ってゆく。

「ニムロッドって(…)あれって、塔を建てようとした英雄の名前ですよね?」

(…)

「建てようとしていた?」

(…)

「(…)せっかく順調にいってたのに、邪魔するのってひどいですよね」

(63p)

ナカモトに送られない文章として、ニムロッドのメールがおかれる。かれは駄目な飛行機コレクションno.9「桜花」に乗って、塔から太陽に飛び立つ。

塔は彼の執着であり、小説だった。そこから「最後の人間」を見て、「未来は人間を縛る」と考える。だから彼は太陽を目指す。そしてそれが中本に知られることはない。

一つの小説が世の中に存在するためだけに行われる、シンプルな行為。

(41p)

サリンジャーだよ。

ただごろりと文章があるんだ。

(68p)

中本が左目から流す、感情のない涙。それは荷室や、田久保との結びつきを、象徴的に表している。

ぽたぽたと流れる、水みたいな涙。別に悲しいわけでも、感動しているわけでもない。

(30p)

だが、なぜだろう?その塔を手に入れてから、僕の右目からは涙が止まらなくなったのだ。

(58p)

君のこれ。感情のない涙。

(66p)

涙の量が普段より多い。

(69p)

「感情の伴わない涙」を流しながら、中本が新しい仮想通貨を構想するところで、小説は終わる。彼が建てようとしているのは新しい彼の塔だ。

何らかの視点によって切り取られた、限定的な世界の中心に塔は立つ。

(…)

執着心が薄まっていく社会の中では、誰よりも強く何かを求め、執着できるかどうかが肝要なのだ。その感情の理由は誰にも共感されないものであればあるほど良い。

(40p)

 感想

3人の登場人物がそれぞれ問題をかかえており、それが現代人のかかえる息苦しさと通底しています。本書がテーマとしているのは、平坦化する社会の中で、いかに欲望(=塔を建てる)することができるか、あるいは、多すぎる情報のなかで、決断する(田久保の選択)ことの悩み、ひいては、決断を回避すべきであろうか(溶け合った人類)というものです。

どこでもが世界の中心となりうる状況で、一方に執着する人=ニムロッドがいて、もう一方には決断を回避したいと願う人(田久保)がいます。その間に立ち(あいだを取り持ち)ながら、涙を流すことしかできないのが、ナカモトだと思います。

本書の世界観は現実的であるものの、テーマを指し示す作中作の部分はSF的色彩が強く、これは著者の過去作に近いです。「惑星」(太陽・惑星に収録)や「塔と重力」などが本書とモチーフの類似が色濃い作品でしょうか。あわせてよむと、より理解ができると思います。

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