田山花袋「東京の三十年」 「その時分」より 花袋がみた明治初期の東京

以下の記事の補遺です。

田山花袋の誕生から、「蒲団」執筆の頃までの略述 – 日々の読書

「私も苦しい道を歩きたいと思った」田山花袋「蒲団」 – 日々の読書

「あたかも静かな深い利根の河口のおもむきにたとへたい」田山花袋「百夜」感想 – 日々の読書

「東京の三十年」について

「東京の三十年」は、1917年に刊行されました。出版元は博文館です。

著作権保護期間は満了していますが、青空文庫には収録されていません。

本書はアルフォンス・ドーデの「パリの三十年」に影響を受けて執筆されました。

花袋は地方から上京し、「蒲団」で名声をえるまでは、苦しい修業時代をおくりました。たとえば、明治24年ごろ、書き溜めていた小説を出版社に渡したときの報酬の少なさに、

「三年かかつて、二十五円、これぢやとても駄目だ。とても文筆では身を立てることができない」

と悲嘆したことは紹介しました。(「略述」参照)

本書は、「蒲団」などで文壇での地位をえた花袋が、東京で暮らした30年間を回想するというものです。交友関係、当時の東京の様子、花袋の生涯などを振り返るのに、素晴らしい資料となっています。

「その時分」

東京の光景

その時分は、東京は泥濘の都会、土蔵造の家並の都会、参議の箱馬車の都会、橋の袂に露店の多く出る都会であった

(7ページ)

土蔵造の家並がならび、西洋風の大きな建物は唯一、ケレー商会しかなかったといいます。また「ガタ馬車が、例の喇叭を鳴して」通っていく様子も、生き生きと活写されています。

ガタ馬車について

ガタ馬車というのはがたくり馬車ともいい、この頃の小説にはよく登場します。(以下青空文庫にある作品より数作引用)

そのころの軽井沢は寂れ切っていましたよ。それは明治二十四年の秋で、あの辺も衰微の絶頂であったらしい。なにしろ昔の中仙道の宿場がすっかり寂れてしまって、土地にはなんにも産物はないし、ほとんどもう立ち行かないことになって、ほかの土地へ立退く者もある。わたしも親父と一緒に横川で汽車を下りて、碓氷峠の旧道をがた馬車にゆられながら登って下りて、荒涼たる軽井沢の宿に着いたときには、実に心細いくらい寂しかったものです。

岡本綺堂 木曽の旅人

明治24年にもガタ馬車はありました。

自分は如何いふものかガタ馬車の喇叭が好きだ。回想も聯想も皆な面白い。春の野路をガタ馬車が走る、野は菜の花が咲き亂れて居る、フワリ/\と生温い風が吹ゐて花の香が狹い窓から人の面を掠める、此時御者が陽氣な調子で喇叭を吹きたてる。

と、花袋と親交のふかかった独歩も、ガタ馬車の喇叭を好ましい、とのべています。「人車鐵道」にこの喇叭がついていることで、いささか興を助けている、とこの後つづきます。

当時まだ金沢には電車はなかつた。ガタ馬車があつた。「ガタ馬車キタキター、ノレノレ」と僕達は歌つてゐた。

中原中也 金沢の思ひ出

また、「がたくり」という形容詞は金沢出身の作家、泉鏡花が使用しています。秀逸な表現だと思います。

またそれだけに、奥の院は幽邃森厳である。畷道を桂川の上流に辿ると、迫る処怪石巨巌の磊々たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐の幹も根もそのまま大巌に化したようなのが々と立聳えて、忽ち石門砦高く、無斎式、不精進の、わけては、病身たりとも、がたくり、ふらふらと道わるを自動車にふんぞって来た奴等を、目さえ切塞いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干づきで、静に平かな境内へ、通行を許さる。

泉鏡花 遺稿

その言の訖わらざるに、車は凸凹路を踏みて、がたくりんと跌きぬ。老夫は横様に薙仆されて、半ば禿げたる法然頭はどっさりと美人の膝に枕せり。

泉鏡花 義血侠血

本屋

花袋は少年時代、本屋を巡った思い出を回想しています。(9ページ)本屋の名前が「須原屋茂兵衛」「山城屋佐兵衛」とありますが、これは有名な本屋らしく、前者はwikipediaにも記事があります。また、後者は「現在も営業を続けており、寺町五条で仏教書籍・経本の刊行と古書籍の販売を行っている。」とあります。(花袋があげた本屋と同一かは未確認です。情報があればお知らせいただけると幸いです)

須原屋茂兵衛 – Wikipedia

現代に伝わる板木

また、丸善も登場しています。

汽車

新橋横浜間に汽車が開通したのは、明治五年のことですが、これも花袋の回想に登場します。(「少女病」にも汽車が印象的に登場しました。)

日本の鉄道史 – Wikipedia

いかにえがかれているか、ですが当時、唯一の汽車であった上記新橋横浜間の一線はまだめずらしく、

汽車は出て行くサイサイ、煙は残るサイサイ、残る煙は癪の種サイサイ

という歌がはやっていたそうです。そこに、ピエール・ロティが日本に来て(1885年の来日でしょう)、汽車について、

日本にも汽車!小さな小さな汽車!がたがたと体も落ち着けていられない汽車!

と、いったことを紹介しています。他にもロティは日本について相当に手厳しいことをいっているのですが、それについては略します。

ピエール・ロティ – Wikipedia

ここで花袋は憤ったりするでもなく、

それほど小さなあわれな汽車であるが、それでもこの汽車のできたのは、日本の政府にとっての最初の大事業であった。 私は十軒ほど間を隔てて立って、そして、その前を怪物のようにして、凄しい音響と煤煙とを漲らして通っていく汽車を眺めた。

と 、「小さなあわれな汽車」が「怪物のようにして」通っていくところに、「日本の政府」の最初の大事業をみています。「東京の三十年」は、こうしてはじまります。

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